先々週末の出来事、3件。
田園都市線のある駅前、午前8時半。
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幸福実現党”のビラ配布。えっ、何?
自民党も民主党もだめだから新しい政党作るって?すごいね。「宗教が政治に乗り出す、どこが悪い。今の状況は神仏に頼らなければ駄目だろう・・・」
政教分離など無視。すごい〜。リンクは貼りません。調べたい方はご自由に。
渋谷、宮益坂下。
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Together for Peace Power”のセミナーの案内。若くてきれいな3人の女性。
・・・・・宗教?
違う。ビジネスらしい。
NPOだ。真面目な。でもないかな?
裏のサイトがある。アセンション・ビジネスの一種?でも面白いからリンク貼っておきます。
そして、極め付き。JR,田園都市線、溝口。
固い言葉の街頭演説が聞こえてきた。
顔も所作も優しげな女性弁士。だが、言葉が異様に固い。どこか聞いた覚えのあるような・・・。
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日本再生”の筆文字タイトルの新聞。
「独立変数としての主権者運動」
いいねぇ〜、独立変数ときたか・・・。そして、・・・・・「がんばろう、日本!」だ。
たまら〜ん。
立ち止まって読んでいると優しいお顔の弁士が寄ってきました。一部300円。
買いましたよ。なんて言っても独立変数ですもの。・・・買わなくっちゃ。
誰? 戸田代表って?
帰ってきて調べた。ネットにはいろいろ書いてある。ふ〜ん、全共闘の時代の人か?道理で言葉が・・・・。でも、そんなことはどうでもいい。
何でもいいが、
この運動はこちらも真剣に受け止めなければならないと思った次第。
公式サイト
「がんばろう、日本!」に“
パブリックの主権者運動 七つの原則”というのがある。戸田さん個人100%の言葉なのだろう。共有地の正しい意味は分からないが、分かったように思う不思議なすばらしい言葉だ。
一 功名心ではできないこと、『バッジをつけたいだけ』の人間がやろうとしないことを、やれ。
二 まず『共有地』を手入れする、自分にプラスがかえってくるかどうかは世間さま次第。
三 『共有地』を手入れするために不可欠な持ち場は誰にでもある。務めを自覚した時からその人の持ち場はでき、かけがえのない存在になる。
四 目先の利益だけで人を見るな。今日明日の使用価値があっても功名心では信頼関係はできない。不条理と戦うなかで『公』にかかわる何かを共有していけば、人は集まり絆は広がる。
五 手っ取り早い成果を求めるな。世直しは十年でダメなら二十年、それでもダメなら三十年。生きて功なり名を遂げる、ということでは、他人が手入れした『共有地』を私欲のために食い荒らすことになる。
六 政治評価なんぞは、時代が変われば変わるもの。時代を超えて変わらぬもの、真なるものを求めていけば、次世代に何かは伝わる。
七 世直しに定年はない。《創造性の程度は側頭葉に蓄えられた『経験』と前頭葉によって創られる『意欲』のかけ算で決まる。経験なしに創造性は生まれない》(茂木健一郎)。経験を編集する知恵をつけよう。老害とか若害と言ってすりかえるな。
新聞に戸田代表の提起がある:
「独立変数としての主権者運動」を、どのように集積していくか。その実践的教訓を共有し、多様なモデルを展開していくために、何をなすべきか。
難解な言葉遣いにまともに張り合おうとすると自分でも訳が分からなくなるので、写経のごとく書き写しましょう。
ある問題設定でまとめようと思ったら、そのための現状分析や、誰から、どのグループからコンタクトをとるか―優先順位を間違えたりしたら、まとまる話もまとまりません―、あるいは最大会派と考えが違う場合は、事を起こす前に最大会派を四分五裂にするような政治を打つ、そういう頭の使い方が必要になります。ということは、そういう実施工程、組織計画までを共有するということが、同志的信頼関係ということになります。友人関係についても、どの段階でブレるから戦力にならないということなのか、肝心なときにブレない友人なのか、という見極めが必要です。こういうことを知り尽くしておかないと、ある問題設定で人間関係をマネージするということはできません。
主権者運動でも、そういうマネジメントが問われる段階に入っている。こういうことは実際にコミットしないかぎり分かりません。アタマで分かったつもりになると、すべて逆立ちになります。こうした組織づくり、仲間づくりに対する実感がないという状態を、フォロワーの中でも終わりにしない限り、成熟した政党と責任ある有権者との関係に移行できない。そういう段階に入っている。
「日本再生」の読書会というのは、「がんばろう」の問題設定、その人格的表現である戸田の問題設定や時代観、方針をどうやって共有するか、ということなんです。さらに方針一般のみならず、戸田のガバナンスやマネジメントのしかたを主体化すると。
これは戸田との距離感をタテの関係でとらえていたら、できません。・・・・・問題設定や方針、分析をどう共有するか(「外部性を内部化する」のではなく)、そこから自分の社会的経験、あるいは仲間との関係をどう再編成していくか、そこでの障害をどうやって取り除いていくか、そういうことからタテの関係ではない、構造的な球体の関係が見えてくる。「持ち場が見える」ということです。「距離が縮まる」のではありません。こうした問題設定の共有、その多様な型というものが、それぞれの持続的な活動として(規模や展開力には差があるが)集積し始めている。
政党が有権者とマニフェストで向き合い、有権者も「政党のありよう」に向き合い、堂々たる政権選択選挙への道が開かれる。
このために独立変数としての主権者が自らの責任で動かなければならない。
「がんばろう、日本!」の当面の問題設定のようです。
この問題設定に疑問の余地などありません。しかも、問題設定に何らかの解決策が出て、満足したなら元の木阿弥。けっして、当面ではあり得ない永遠の問題設定。
構造的な球体の関係構築のために、あなたは、そして私は、何をするのか?
「構造的な球体の関係」、この言葉はいいですね。
細々と続けている“じっと目”やブログ活動。
どこかで政治的な動きにならざるを得ないと考えてはきた。しかし、ステレオタイプな物の見方で、すぐ、右だの左だのと色分けする。
日本の将来、つまり子供たちの未来にそんな色分けは必要ない。そんな底の浅い政治の活動に巻き込まれている限り、けっして目的は達成されない。
組織になれば、堕落する。そう思ってきた。
「がんばろう、日本!」の構造的な球体の関係の一部になり得るだろうか・・・この一週間、考えさせられました。
主権者運動でも、そういうマネジメントが問われる段階に入っている。・・・こうした組織づくり、仲間づくりに対する実感がないという状態を、フォロワーの中でも終わりにしない限り、成熟した政党と責任ある有権者との関係に移行できない。そういう段階に入っている。
戸田氏のこの時代認識は正しいのだろうと思います。氏のマネジメント定義からすれば、横をきょろきょろ見てブログで物を言っても始まらない。もっと態度も覚悟も鮮明にしなければならない、ということなのでしょう。
政党が有権者とマニフェストで向き合い、有権者も「政党のありよう」に向き合っても、日本一国だけで物事は完結しません。
特に、日本はアメリカの傘の下にある。あらゆる場面、局面で。
日本が生きていく上で、アメリカの傘はいたし方ないだろう。しかし、
一方的にやられるのは駄目だ。知恵を使わずにやられるのは駄目だ。しかも、アメリカにやられるのに加担する政治家、官僚、経済人が現実に存在する。
日本が世界のバランスの中で、つまりアメリカの傘の元であってもアジアを始めとする諸外国と良好な関係を築くための必要条件は、以下の二つだろうと思ってきた。逆に、これらがなければ日本は消滅するかもしれない;
1. アメリカも含む他国にとって魅力ある一定の(人口に応じた)消費構造を持つ国であり続けること
2. どこの国にとってもけっして軍事的な脅威とならないこと
これらは、“政党が有権者とマニフェストで向き合い、有権者も「政党のありよう」に向き合う”の根幹の部分ではないかと思う。そして、今のようにアメリカにやられっぱなしでは到達できない目標と思う。
一定の消費構造というのは、
中流社会を目指すという意味です。
これが海外の国からみた輸出先日本の魅力です。購買力の持たない日本など相手にもされない。格差社会になればなるほど輸入総量は縮小する。そんな国は魅力的でも何でもない。
アメリカの完全支配から一歩抜け出て、日本が生き抜こうとすれば、そういう消費構造、つまり、
富の分配ができるだけ均等な国にしなければならないと思います。これがアメリカとの関係を新しくする原点、アングロ・サクソンと漢民族(中国)の覇権主義の狭間に生き抜く日本の戦略基点です。
社会資本を収奪するシステムとしての市場原理主義、原理的に格差社会を助長する市場原理主義に反対する理由はここにあります。(
市場原理主義前提の誤り:参照)
今回の金融危機で市場原理主義が後退したかのような論議もありますが、市場原理主義は“お金そのもの”、後退することなどありません。
次のバブルを狙って仕掛けてきます。そしてバブルのたびごとに公的資金の形で、一般大衆のお金(税金)が吸い取られる。
難しい問題ですが、主権者であるあなたは市場原理主義の構成員でもあります。どうしますかね?
うっかり乗らないように仕掛けに目を光らせる。しかし、仕掛けに乗りたいあなたを止める手立てはありません、残念ながら・・・。
仕掛けを事前に暴くことを続ける以外に方法はありません。
仕掛けは敵の戦略です。その戦略を見抜く目を養う。できるだけ多くの主権者が。
主権者が戦略的に物事を考えれば、議員も戦略的にならざるを得なくなる。その積み重ねが、戸田氏の言う集積になる。
議員は間違うのが怖いから戦略など簡単に公開することができません。だから、主権者が議員に求めるだけでは進展がない。主権者は無責任にどんどん戦略を暴き、公開しましょう。
アメリカの戦略読み切れているでしょうか?
実際、戦略立案能力は主権者運動にとって欠かせないのではないでしょうか?
主権者がその能力を身に付け、ブログでもHPでも、どんなメディアを介してでも世に晒し続ければ、地方自治であろうが国政レベルであろうが独立変数としての主権者運動は集積していくと思います。
ただし、ここで言う立案する戦略の目的対象は、今大人である主権者ではありません。議員や議員候補者でもありません。20年後20歳になる子供たち。30年後30歳になる子供たちです。
「がんばろう、日本!」では、国政は間接民主主義、地方自治は直接民主主義と分離しているようですが、子供を主役にした途端に、直接、間接の差は消滅します。
主権者の思想、主義、議員の主義・主張や持っている手段など、極端に言えば何の関係もありません。子供たちが住む社会がどういう社会であるべきか、そう考えたとき、今の大人の考えにそんなに大きな差が出るでしょうか?
大人たちの達成する方法論の違いとリスクの大きさ(成功度の反対として)に違いは出るでしょうが、独立変数の幅はそれほど大きなものにはならない、そう思うのですが・・・。
憲法9条を使って説明します。
他国に攻撃されるかもしれないから9条に“守りのための攻撃ができる”を入れよう。(最近できたという幸福実現党はこういう主張です・・・びっくりしました。)
憲法を変えようという人たちは多かれ少なかれこのような主張でしょう。それは、大人のあなたの考えにすぎません。
あなたの主義も、好き嫌いも全部捨てて、純粋に30年後の子供のためにだったら、どう考えますか?
9条の変更反対の方は、「いつか来た道に子供たちを再び向かわせることはできない。だから今のままで良い。」
これもあなた大人の考えではないでしょうか?
子供たちに戦争のない社会に生きさせようとすれば、9条の問題には留まりません。日本の経済上の立場を抜きに憲法だけを考えても始まりません。経済のありようを考えなければなりません。社会構造も考えなければなりません。
憲法は基本だからと大人の固い頭で考えて、9条“維持”か“変更”か、二者択一で争う。自分の主義主張を振りかざして・・・。
先日、国立市の“9条の会”という集まりを知りました。改憲絶対反対という人の中に、学校の行事の国旗掲揚も国歌斉唱も反対という人がいます。君が代が天皇のためだから駄目と。
改憲反対、天皇制反対、国歌斉唱反対、一式なんですね。パッケージ。
改憲反対、天皇制賛成、国歌は当然、という組み合わせはないのですか?
私が、そうなのですが・・・。
あのね、天皇家は特別。
特別な存在がないとね、日本人はめちゃくちゃになると思うのです。
麻生さんが国家元首の立場に相当するのですよね。誰でも良いのですが、どうなると思いますか?
天皇以外は全部平等、と考える社会の方がまだ救われるように思うのですが・・・。結局、日本をここまで持ってきた力の源泉はそこにある、ある種の節度(?)かも知れないと思っているのです。
誰に教えられたわけでもなく、うんと小さい頃から天皇制賛成の根拠がこれです。歯止めがなくなったときの同じ日本人の傲慢さが怖いのですね、本能的に。
この本能、間違っていると思いますか?
間違いなら良いのですが、こんなことも視野に入れて、30年後の子供たちがどんな日本であって欲しいかを考えなければならないということを言いたいのです。つまり、子供たちにとって理想の社会を持つためには、もっと大きな枠組みの中で憲法のあり方すら戦略として考えなければならない、そういうことです。
戦略立案能力を主権者が持つ。
“政党が有権者とマニフェストで向き合い、有権者も「政党のありよう」に向き合う”というのは、こういうことではないでしょうか?
「がんばろう、日本!」に叱咤激励されたこの一週間でした。
俺は、まだ甘い。
もっと真剣に・・・構造的な球体の関係構築のために;
1.戦略・シナリオ作成のための
ウェブ・セミナーをもっと勉強してもらおう。
2. 英文ブロガーを目指そう!は、もっと戦略的発想テストの場にしよう。
3.がんばって、英文ブログももっと書こう。
戸田さん、そして溝口で声をかけてくださった畑口さん、感謝します。